鶏肋日記(けいろくにっき)

クソッたれな人生や世の中についてのブログです

メダルの価値、パラリンピックのハイテク化

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初めて当ブログにお越しいただいた方、訪問、ありがとうございます。

何度かお越しいただいている方、いつもありがとうございます。

鶏肋(けいろく)と申します。

 

 

 

 

メダルの価値

 

平昌五輪の熱気も鎮まり、寂しさを覚えている人が多いと思う。

そういう人に冷や水をぶっかけるわけじゃないが、人工的な

 

 

感動をありがとう

 

 

一色のムードが大キライである。端的に言って気持ちが悪い。

 

メディアの下衆な盛り上げ方(叩くときは人権も無視して一個の人間を容赦なく叩き潰すくせに、持ち上げるときは下品なほどに持ち上げる。まるで"今後少しの綻びでも見つけたら、即、潰すからね?"フラグの成立の音が聞こえるようだ)と、それに何の疑問もなく、あるいは忘れ、ヒョイヒョイ乗っかり、あまつさえ涙さえ流す連中は同じ地球人だと思えない。

 

きっと、あの人たちはCGなんだ。

 

 

まぁそれで楽しめたり、明日からの活力になったり、将来の競技者が生まれるからいいんだけれど(どっちだw)

 

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きゃわいいけど目が逝ってる猫たん



 

とはいえ、違和感や思うところが多少あるので、それについて書いてみる。

 

 

反感?知らねぇ

 

 

 

ぼくは、メダルの価値には差があると思っている。

金、銀、銅、のことではない。競技間での差という意味である。

 

 

ぼくは100メートル走やマラソンなどが、もっともメダルの価値が高いと思っている。

そして差別するつもりはないが、フィギュアスケートなどのメダルの価値は、それらに比べると低いと思っている。

 

 

なぜか。

 

分母が違うからだ。

 

 

全人類が、可能性をきっちりはじかれてきたのが100mやマラソンなどであり、フィギュアスケートなどはそうではないと思うからである。

 

 

どの国で生まれても、お金持ちでも、貧乏でも、男でも女でも、速く走れるやつは、

 

「お前めっちゃ速いやん!!!」

 

と評される。そういう機会は、日常に、山のように転がっている。

 

たとえば日本では、学校での体育の授業や友達との遊びなどを通じて、走りが速い奴とそうでない奴が見極められる機会はふんだんにある。

 

日本でなく、たとえばスラム街育ちの極貧の人間でも、ケンカ相手からチーターのごとく逃げおおせたら、逃げた姿勢はともかく、足の速さには一目を置かれることだろう。

 

つまり、シンプルな、純然たる身体能力が問われる陸上競技において(それでもシューズなどの性能の差はある)、"才能が開花する可能性が見逃される"ことはほぼゼロだと思う。

 

 

何が言いたいかというと、

 

"もしかしたら100m走という競技と出会っていたら才能が開花し、メダルを取れていたかもしれないけれど、実際は出会えずに人生を終えた人"というのは、世の中でほぼゼロだと思うのである。

 

それまでの人生で、自分が短距離で世界一になれるかもしれない、という可能性の芽がきっちり摘まれているからだ。

 

 

自分より速く走る奴は山のようにいる。

だから自分は違う山を登らないと。

 

というふうに。

そのような場合、羨望や嫉妬が入り込む余地はない

あるのはただただ、人類の未知なる可能性に対する賞賛だけである。

だから、キレイに諦めがつく。

 

 

 

しかし、フィギュアスケートをはじめとしたいくつかのスポーツ(スポーツに限らないかもしれない)は、

 

 ・親がその機会を与えてくれないとそもそも出会えない

 ・氷などの環境がない生活圏の人はスタートラインにすら立てない

 ・練習、遠征、道具に莫大な支出が必要

 

これらの条件をクリアできたレアケースな人だけが、はじめて競技にのめり込める。

 

 

もっと簡単に言うと、

 

100m、マラソンなどは、地球上の70億人すべての人間がふるいに掛けられるが、

 

フィギュアスケートなどは、地域性、予算などの敷居の高さから、ふるいに掛けられるのはせいぜい20億人くらいではないかと思うのである(数字は想像です)。

 

つまり、"フィギュアスケートに出会っていたら凄い才能を発揮したかもしれないけど、出会えずに人生を終える"人が、実はかなりいるんじゃないかと。

(そりゃ、生活時間と得意分野の遺伝子が相関関係にあるとか、言い分はいろいろあるだろうけど)

 

こういうのを機会の不平等という。

ぼくは機会の不平等が大嫌いだ。

 

 

もちろん世界は不条理に満ち満ちている。

これもそのうちの一つといってしまえばそれまでだ。

 

しかし、チャンスだけはすべての人に与えられる方が望ましいと思う。

 

そのチャンスを掴むも、捨てるも、譲るも、それは各人の勝手でよい。

そして、結果は大いに不平等でよい

 

しかし、せめて機会だけは平等でないと、少なくとも平等に近づけるように改善していかないと、人間はいつまでたってもダメだと思う。

 

念が残ってしまうから。

 

 

単純に、選手の立場で考えると、100mなどの選手は、金メダルを取った瞬間、

 

自分が人類の頂点だ!

 

と思える気がするのだが、そうでない種目の人は、芯からそう思えるのだろうか?

 

だってスゲー奴が世に埋もれてるかもしれないんだよ?

そういう人と真剣勝負してみたかったと思わないのかな?

 

たぶんドラゴンボール孫悟空は、そういうメンタリティの持ち主だ。

だから強いんだ。

 

とまぁ、別にぼくはフィギュアスケートに何の恨みもないし、個々の選手の積年の努力を、辛酸を、否定する気なんて毛頭ない。

 

まして、今大会のメダリストを貶したいわけでもない。

メダルは、尊い

 

 

それどころか、全然関係のない(たとえば熱帯エリアの)人たちに、

 

へ~、こういうスポーツもあるんだ。おもしろいなぁ

 

という印象を与えることもできるだろうし。

 

 

矛盾するようだけれど、競技人口の大小にかかわらず、世界のトップ3になんて、並みの努力や執念で入れるわけがない。

狂気すら必要だと思う。 

 

だからこそ、気高く、素晴らしい。

ぼくは、オリンピック選手を、尊敬しています。

 

 

  

ところで、話は一転して、

パラリンピックのハイテク化を望む

 

パラリンピックはもっとハイテク化してほしい。

 

鉄腕アトムのようなジェット噴射など、あらゆる最先端の化学技術を搭載して、

 

100メートル2.3秒

 

とか、

 

走り幅跳び157メートル

 

とか、

 

 

人間の生身の肉体ではどう転んでも出せない記録をガンガン出してほしい。

パラリンピックでしか見られないおもしろい種目を生み出してほしい。

 

そして、健常な種目とは一線を画した一大エンターテイメントとして、観客を集め、ヒーローを輩出し、ひとつの憧れになって欲しい。

 

"健常"側の選手が憧れや劣等感をもつくらい、凄まじいジャンルになってほしい。

 

少なくともぼくは、そういう世界を見てみたい。

あなたは、見たくないですか?