鶏肋日記(けいろくにっき)

なんやかやと思うこと、クソッたれな人生や世の中についてのブログです

愛するということについて

言われたり書かれたりしていることで、次のような意見をよく目にします。

 

両親(もしくは育った環境における近しい人)に愛された人は、愛されることを、身をもって理解している。だから、そういう人は人を愛することができる。

 

あるいは、ちょうどその裏返しの、

 

両親(もしくは育った環境における近しい人)に愛されなかった人は、愛されることを、身をもって学べなかった。だから、そういう人は人を愛することができない。

 

 

これらはともに同じことを反対から見ているわけなので、その主張は同一です。つまり、

 

人を愛するには、愛された経験が不可欠である。

 

という主張です。これ、一見もっともらしいですし、ぼくも長年「そりゃそうだよな」と思っていたのですが、あるときふと引っ掛かり、疑問が湧きました。それは、

 

愛された人も、愛されなかった人も、愛する側に立ったら、実はどちらもゼロからのスタートなんじゃないか?

 

という疑問です。与える側に立つということは、「愛された/愛されなかった」いずれの背景をもった人でも、それまでの自分とはまるで異なる立場につくことになる、という点では両者まったく同じなので、愛された人は自分の経験が即利用できてアドバンテージ全開でハッピー一直線!!!───とはならないのではないかと思うのです。

 

例えるなら、それまでケーキを与えられて食べる側にいた人も、ケーキを与えられてこなかった人も、いざ自分が作る側に回ったら、まずは初心者、つまり、さんざん悩んでヘタクソなケーキを作るところから始める他ないんじゃないか。他者のアドバイスに従っていればそれで大丈夫というわけにはいかないんじゃないか。たくさん経験して学びまくってやっと少しずつ、愛する力が身についていくんじゃないか。途中経過をワープして身につく種類のものではないんじゃないか。

 

つまり、愛されなかった人が、自身が過去に愛されなかったことでもって、「だから自分は誰も愛せない」という運命論で絶望してしまわなくてもいいんじゃないか。そういう経験よりも重要なのは、実は、愛するという、自分から与えることを、身銭を切った経験の蓄積がイコール愛する能力になっていくんじゃないか。だから、誰でも、どんな人でも、人を愛することはできるんじゃないか。

 

みたいなことを考えたわけです。このテーマ、書き出すと果てしないし、論理的な反論、経験者ゆえの反論、科学的な反証、いろいろあるだろうし、それぞれが間違いだと言うつもりはまったくないですが、↑のように考えた方が優しいんじゃないかな、救いがあるんじゃないかな、と思いました。

 

もっと自分なりに論を詰めてもいいのだけれど、今回はこれ以上詰めません。

これから『NewみんなのGOLF』をするのです。